[タテタカコ] [MIMITTO] [ビーグルズ] [ロボピッチャー]



その特徴的な作品性、アート性について

 「詞が先ですか?曲が先ですか?」という質問がインタビューの常套項目になるような、概ねわれわれが普段接している感覚とは明らかに違う次元で、楽曲を構成する要素の不可分さがタテタカコの作品には感じられます。それは、言葉と旋律だけではない、リズムやテンポ、ピアノのフレーズ、音符の長さをどう解釈するか、発声法、言葉の意味、擬音、ハミング、その楽曲を構成しているあらゆる要素が不可分なのだと感じられるのです。音読する言葉表現の、おそらく究極に近い姿がそこにあります。

 そして、気持ちの奥底の方から汲み出されてくるような言葉は「何について語っているのか」という観点をはるかに飛び越え、その「何か」そのものを感じるものになっています。聴き手との間に生まれるのはもはや共感に留まらず、その「何か」によって生ずる多種多様な感情、あるいは感動です。しかるに、タテタカコの作品は世代、時代や境界、空間、民族や言語を超越する可能性を有していると思います。そして、その根底に脈々と底流しているヒューマニズムは、そこに生まれた感情を最終的には幸福な、快適な方向に導く力を持っています。

 ライブ・パフォーマンスもレコード作品も、うたとピアノだけで表現しきる、ポップ・マーケットにおいては世界的に見てもあまり例のない表現フォーマット。その有様はパンク。癒し系だと思って来るとケガをします。石橋を叩いて壊しかねないくらいの自分に向けた徹底的なアンチテーゼは、彼女の表現全般に神秘性と攻撃性を、そしてメソッドの斬新さと緻密さを与えているのだと思います。それは一種の神々しさも伴った唯一無二の有様です。

 もともと彼女は、レコーディング・アーティストになりたいとか、デビューしたい、というタイプの動機を持って歌い始めた人ではありませんでした。少しわかりにくいことかもしれませんが、それはコマーシャリズムを拒否した芸術至上主義的な姿勢ではなく、歌っていられれば良いのだという諦観を伴ったアマチュアリズムでもなく、充分に表現芸術家としての野心を持って「表現者としての自分の探求」を志向するアーティストだったのです。

 消費経済的な価値観が行き詰まりに近づいた21世紀初頭に、感動によって新たなエネルギーを生産するという音楽の本質からけして離れようとしないタテタカコを、われわれは表現者としてとても信頼しています。計らずも帯びてしまった本物としての使命を自覚すらしていないユルさも含めて。


 


前進、その先は……

 ビーグルズはまっすぐに進む。ジャンケンをしたらきっとグーしか出さない、そんな表現をします。目の前の壁が崩れないときでも、けして迂回して壁の向こうへ行こうとはしないでしょう。

 ここまでまっすぐだと、歪んだ現代社会の中ではきっとあちこちが破綻するはずです。たぶん、3人とも三様に、それぞれの部分で、ある意味で、明らかに破綻しています。けれど、破綻していようとどうだろうと、とにかくまっすぐ前へ進むのです。ビーグルズとは、そんな3人です。

 なぜ、そこまでまっすぐなのだろう。

 おそらくビーグルズの表現の根底には怒りがあるのです。普段は穏やかで呑気な風貌の3人が、ひとたびステージに上がって演奏を始めると、とたんに高温で燃え盛る炎のような相貌に変容します。虚空に視線を投げる時も、アイコンタクトを交わす時も、互いのその眼の中には挑みかかるような光が走り、放熱の果てに見えてくる3人の静かな佇まいさえも、鎮火した炎のような光を纏っているのです。そしておそらく、その光の源になっているのは怒りなのです。
 既存の価値観では、きれいに整ったもの、愛らしいもの、目障り耳障りの良いものを「美しい」と呼びます。世の中は美しいものとそうでないものに分けられていて、そうでないものには蓋がされます。きれいに整った画一的な風景が偏狭な感覚でデザインされていく。古びて汚れたものは壊して取り除いてしまえば良い。そんな短絡的な風景が日本にはたくさん作られて来ました。
 美しい自然の中には、雑然とした雑木林や伸び放題の草むらや、崩れた土手やボウフラの湧いた水たまりがあります。森の中に入ると歩くのも困難なくらいに荒れて朽ちた木々の奥に動物の屍骸が転がっていたりします。産業廃棄物で汚染されていることもあります。「美しい」という言葉で括るとき、大抵はそういったものには蓋がされます。とても解りやすい単一な美しさだけが語られるのです。それがこの世の美しさだと。

 ビーグルズは世界の有りようについて歌います。すべての有りようを全身で認識して、全身で表現します。作品は録音作品として定着されたものであるだけではなく、演奏されることを伴った生きたパフォーミング・アートとしても存在意義を発揮します。
 もちろん、録音作品それ自体もひとつの表現としてしっかり聴き手に渡されるものなのですが、彼らの場合、身体すべてを使って表現される感情や温度や空気の匂いなども、音や言葉に伴って受け手に伝えられるものなのです。感覚的な話ですが、ビーグルズの表現はそんな表現です。
 美辞麗句を並べた詩ではありません。語彙はむしろ、荒々しくて簡潔です。失うことや、疲弊することや、儚いことや、怒り、様々な嘆かわしいこともそのまま表現されています。そして、倒れ込んで見た空の青さに息をのむのです。率直に語られるその詩情は、簡潔な語彙以上に、もしくは簡潔であるがゆえに、美しく切実に伝わって来ます。

 それがビーグルズの表現の真価だと思います。それは、我々が最初にビーグルズの表現に触れたときと寸分も変わっていません。さらに研ぎすまされて熱や匂いは伝わりやすくなっていると思います。表現は着実に鍛錬されているようです。



なぜこの3人がここにいるのか

 MIMITTOが産声を上げた2002年という時期は、音楽シーンの状況も社会の様子も、大きな変化へと動き出した初期にあたると思います。いろいろなものが予想と違う方向へ頭を振り、底を打ったと思われた最底辺がさらに沈下する、そんな変化のはじまりにあったのです。

 誰もが自分の創作物を簡単に録音、複製できて、簡単に商品にして流通に乗せられる仕組みは、表現者にとって幸福な状況を生むと思われていました。我々もそう考えていました。
 けれど、日本の社会の他の事象と同じく、そこからも本質が抜け落ちてしまったこの便利な仕組みは、簡便であるという部分だけが機能して、表現の根本であるモチベーションやアイディアの充実には至りませんでした。
 「売れる」ことに殺到する価値観が大勢を占めるこの国では、その仕組みの本来の意味に思いを馳せることなく、それを使うことばかりに長けて行ったのです。結局、表現者の環境を豊かにする可能性のあったこの仕組みは、何の審美基準も持たない制作意図によって「安価に量産できる」という意味に変換され、表現者たちのアイディアは驚くべきスピードで消費されて粗鬆になってしまいました。20世紀末期の日本のロックに最大の不幸をもたらした「バンドブーム」の更に劣化した現象があちこちで雪崩を打ち、音楽の価値は限りなくゼロに近づいています。

 MIMITTOが生まれたのはその狭間でした。幸いなことに彼らはバンドブームを知りません。そしてインディーズブームが到来する直前の、いろいろなフォーマットの音楽が百花繚乱し始めていた時期に生まれているのです。そのためか、彼らは音楽に対する偏見や歴史的な知識を持っていません。自由自在に様々なフォーマットを、単に自分の受容性だけで受取ることができます。
 最初から彼らは「誰もやっていないことをやろう」という表現者としての野心を持っていました。パワーコードと簡単な旋律だけの中でも、その片鱗は明らかでした。
 歌う言葉もステロタイプな文句を繰返し唱える凡百のポップ作品とは違っていました。覚束なかろうと言葉が足りなかろうと、あくまでも自分が肌で感じたことを自分の言葉で、しかも、安易に共感を求めるのではない、普遍的な描き方で表現するのです。彼らの歌の中には、21世紀に20代を迎えた世代特有の、絶望的に出口の無い不安感と、その中から闇雲に突き抜けようとする力強い意志が宿っています。

 だから、この3人はここにいるのだと思います。自分たちが成功して何者かになれるのか、存在意義を得られるのか皆目わからない不安の中で、あちこち飛び回り、のたうち回りながら、彼らはけして音楽をやめません。音楽それ自体、彼らが生きている素朴な実感であり音楽を選択し続ける理由だからです。そして、それゆえ我々はMIMITTOを信頼できる表現者として支持し続けているのです。




京都発、現代文芸ロック。
豊かな音楽の発祥地・京都の最深到達点。
ポップとアバンギャルド、頭脳と肉体、音楽と言葉、
すべての要素が見事な均衡で成立している奇跡の4人組。

2002年結成。くるり、キセルに続く京都発ロックバンドとしてブレークの期待が高い。自分たちの音楽表現に留まらず、毎年秋に京都大学西部講堂で行なわれる関西随一のイベント「ボロフェスタ」を主催したり、秀逸なフリーペーパー「SCRAP」を定期刊行するなど、関西のサブカルチャー&アートシーンに大きな存在感を示している。

ネーブルファクトリーワークスでは、2004年3月の初出作品ミニアルバム「消えた3ページ」から「透明ランナー」「まぼろしコントロール」の3作に関わるA&Rとマネージメントを担当しました。